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爆裂弾を投げつけられた大隈重信、後年その様子を語って曰く…

大隈重信は、明治から大正期を代表する政治家、教育者として有名な人物です。

 

そんな彼の政治家生活は結構波乱万丈で、政争に敗れて下野したかと思えば復権したり、ようやく引退したかと思えばまた復帰したり、その過程でなんと2回も爆弾を投げつけられたりと人生経験豊富な感じです。

 

特に1回目に爆弾を投げつけられた際に大隈は右足に重傷を負い、治療のため右足の大腿部より下を切断することになってしまいます。

 

このように書くと大惨事なわけですが、大隈は後年この出来事について、意外なほどにあっけらかんと振り返っており、その様子は1919年に刊行された彼の談話集『青年の為に』に記されています。これが中々面白い内容だったので紹介したいと思います~

 

  

大隈重信、来島恒喜に襲われる

1889年、当時外務大臣だった大隈は不平等条約改正に取り組んでいましたが、国内から激しく批判されていました。

 

それは、大隈の提示した条約改正案には大審院判事に外国人を起用するという規定があったためです。これは今でいう最高裁裁判官に外国人を任命するようなもので、司法の中枢を外国の手にゆだねかねないと強い反発を招きました。

 

そしてこの条約改正案に怒った右翼活動家の来島恒喜が、10月18日に大隈を襲い爆裂弾を投げつけることとなります(ちなみに来島は、爆裂弾を投げつけた直後に自決しています)。

 

大隈重信、かく語りき

さてこの事件について、大隈は一体どのように語っているのか。少し長くなりますが、『青年の為に』のpp.116-118から引用したいと思います(以下、旧字体・旧仮名遣いは現用のものに改めたり、適宜句読点を補っています)。

 

まず大隈は往時を振り返りつつ

暗殺者いかに勇猛と雖も、吾輩の三寸不爛の舌頭を奪う事は出来なかった。中央政府に等しき吾輩の脳の中枢が破壊せられざる限りは、足の一本や二本位はあってもなくても大した事はない。

 

自分の頭脳を「中央政府に等しい」とは中々物凄い表現ですが、いかにも大隈らしい自信満々な物言いと言ったところです。

 

そして、続けて大隈は

唯だ此の際感じたのは、実に人の運命というものは一瞬間に定まるという事である。

 

と語ります。ここで一瞬しみじみと述懐するのかと思いきや、一転して大隈はヒートアップしていきます。

 

現代なら確実にバッシングな大隈談話

一体人間でも国家でも、二十年も三十年も何等の波乱なく平々凡々として年のみ取るのは甚だ面白くない。蓋し老成という事は、一国一社会をして其の元気を阻喪せしむる大害物であるから、老成しかかった途端に時折爆裂弾の音位させて、まさに眠らんとする国民を驚かすもよい 

 

この辺り爆弾テロを正当化するようにも読み取れますが、現代の政治家が言ったら確実に舌禍事件になりそうなコメントです(ちなみに、この項目の小見出しは「時には爆裂弾もよい」だったり)。

 

そしてさらに

 況や現今の青年は、人の褌で相撲を取ろうと云う弱虫ばかりだから、爆裂弾の音を聴いただけでも気絶するだろう。何しろ若いものはコセコセせず、天下を丸呑にする程の元気がなければ駄目じゃ。男子は何でもかんでも大元気でやれ

 

かつてスーパーフリー事件の折、太田誠一議員が「集団レイプする人はまだ元気があるからいい」的なことを言いましたが、どことなく大隈の話も同じ匂いがします。けどまぁ、被害者が当の大隈だったためか、この談話は特に問題になることもなかったのでした。

 

豪快な物言いは大隈のサービス精神か?

この辺り私の妄想ですが、多分大隈重信は話しだすとサービス精神というか、話を盛って語るクセがあったんだろうなぁという気がします。

 

話を面白くするために極端な意見や大げさな表現をしちゃう人って割といると思いますが、多分大隈もそうだったんでしょうね。

 

まぁ実際に大隈は話の引き出しも多いし、今でいうぶっちゃけトークな語り口からあちこちで講演を依頼されることも多かったそうです。

 

それにしたって現代ならだいぶトラブルメーカーになってしまいそうな感じがしますが、これが許されるのが明治の大らかさってモノなのでしょうね。