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木戸孝允が考えた「富国」

以前に記したことがあるのですが、私は歴史上の人物で誰が一番好きかと聞かれたら、木戸孝允と答えます。

 

その理由は、木戸の政治家としてのスタンスが好きなことと、彼の人間臭いエピソードが笑えるためです。けれど、今までに記した木戸の記事を見返してみれば、見事にしょうもないエピソードしか紹介していませんね(笑

 

rekishi-yomoyama.hatenadiary.jp

これでは木戸に怨まれてしまいそうなので(笑)、ここらで1つ、木戸の真面目な部分がうかがえるエピソードを、『木戸日記』から紹介したいと思います。

 

 

藩閥政治を批判した木戸孝允

さて木戸孝允といえば、幕末から明治初頭の政治を主導した人物の1人です。

 

そんな彼は長州藩出身。ならばそのまま長州閥の中心として政治を牛耳りそうなものですが、実際の彼の経歴はやや異なります。

 

『日本史大辞典』(平凡社)の木戸孝允の項目を紐解けば、曰く

 

「五カ条の誓文の作成に関与、69年の版籍奉還実現に中心的役割を果たした」ものの、「しかし大久保利通と対立」して「大久保・西郷従道らの台湾出兵強行に反対して辞任」することとなり、その後大阪会議で大久保と和解すると「専制政治の緩和と民権の拡大のために元老院大審院、地方官会議の設置を条件に政府に復帰、漸次立憲制樹立の路線を作った」

 

といった具合で、長州藩出身でありながら専制政治に批判的な態度を取ったことで知られています。

 

なぜ彼は、藩閥の一員でありながらこのような態度をとったのでしょうか。『木戸日記』を見ていくと、その理由ともとれる彼の考えを読み取ることができます(以下、〔 〕内は私が行った注釈です。また適宜旧字体新字体に改めたり、句読点を挿入しています) 。

 

木戸が考えた「富国」のあり方とは

明治7(1874)年11月18日、当時木戸孝允台湾出兵に抗議して参議を辞めた状態でした。この日の『木戸日記』において、木戸は台湾出兵が一応解決に向かったことを歓迎しつつ、自分の持論を次のように述べています。

 

人民一般の処に付て、平生租税を減し致、富勧業各々自主自由の道理を知らしめ、一人より一村、一村より一郡、一郡より一国、一国より全国の富強に至るの基本を起こさん〔後略〕

 

このように木戸は、日本が富国となるためには個々人が強くあらねばならないと考えていたようです。そのためには減税や勧業だけでなく、個々人が「自主自由」の気風を持って確立されることを重視していました。

 

木戸が台湾出兵に反対した理由

このような木戸の考えは、台湾出兵に反対した際の記述からも伺うことができます。

 

明治7(1874)年9月3日、台湾出兵に反対した際の木戸の考えを見てみると、

「今日内地の急務は、大に教育に心を尽し、徐々一般人民の品位をすすむるを以て第一要とす」

「数十万円を足し、一般教育へ力を用いんと欲し」

「台湾の一挙に至る、故に百方相抗し、内務を専ら挙行するに力を尽し、外征を緩せんとす」

 

とあり、外征は資金の無駄遣いであり、外征よりも教育など、人民のあり方を向上させる手段に資金を投下すべきと考えていたことがわかります。

 

人民第一、首尾一貫する木戸のスタンス

このように木戸は、あちらこちらで人民のあり方が国の基盤であり、人民の向上が国の富国の大前提であると持論を記しています。

 

この考えは大久保利通らが推進したトップダウン型の「富国強兵」とは、真逆の方針であると言って良いかもしれませんね。

 

なんというか、政治を行う際に「人民のため」という視点から物事を考えている木戸は、本質的に良い政治家だったのだろうなと思います。それでいて真面目一辺倒ではなく、羽目を外すときは外し、失敗する時は失敗する木戸さんって、人生を謳歌していたように感じられてやはり私は大好きです。