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黒田清隆史上最大の不祥事、黒田長官大砲事件に迫る!

薩閥の重鎮として有名な黒田清隆。彼は明治7(1874)年から明治15(1882)年の間、北海道開拓を担う開拓使長官を務めています。

 

しかしこの間、黒田は教科書にも必ず載っている開拓使官有物払い下げ事件を起こすなど、長官としての評判はあまりよろしくありません。

 

そして何と黒田はこの期間に民間人を殺傷し、払い下げ事件がかわいく見えてくる一大不祥事を引き起こしています。

 

今回はこのとんでもない不祥事、通称「黒田長官大砲事件」について紹介したいと思います〔以下、例によって適宜旧字体や旧仮名遣いは現在のものに改めています〕。

 

 

黒田長官大砲事件とは?

事件が起きたのは、現在は小樽市の一部になっている祝津村です(祝津村は1902年に高島町と合併。その後高島町も1940年に小樽市と合併し、現在に至ります)。昭和16(1941)年に刊行された『高島町史』pp.245-247によれば、

明治9(1876)年7月30日、祝津沖合航行中、黒田長官搭乗の開拓使宮船玄武丸の実弾射撃を行えるに、標的赤岩巌頭を外れ、祝津村民斎藤某漁舎を撃破し、同家娘多津与の両脚を重傷せしめ、遂に死に至らしめた事件があった。世に黒田長官大砲事件と称し、砲弾命中の家屋は現存している。 

とのことで、少なくとも戦前までは事件現場は現存していたようです。

 

黒田の乗った船が大砲を発射して民間人を殺傷してしまったのですから、当然黒田の責任問題になりそうなものです。しかしこの事件は

黒田長官は此の発砲事件の罪を船長に科し、罰金百円に処し、又同船監督松田時敏に対し追徴金四十円を科して之を埋葬資〔ママ〕に下渡

 と、黒田ではなく船の船長と監督の責任という形をとり、しかも司法の介入を経ずにお金で解決してしまっています。

…これ、絶対あかんやつや…

 

自治体史にもかなりの恨み言が

この出来事、当然というかなんというか相当の怨みを買っています。

 

高島町史』にも

家人の悲憤言語に絶し、後年迄語り伝えて悲痛極りなき恨事とされた。

とか

開拓長官に対する司法権の委任掌握の流弊の一として、史上に印せられた過汚の一頁としなければならぬ。 

 といった具合で、かなり強めの批判が記されています。戦前の自治体史がこんな記述をするなんて、かなり珍しいように感じます。

 

なぜ大砲を発射した?

そもそも、なぜ玄武丸は大砲を発射したのでしょうか?

 

高島町史』には

俗説に赤岩山白龍退治の為発砲云々とあるも確証がない。 

 と、その理由について標的となった赤岩の白龍を退治しようとしたという説が紹介されています。しかし『高島町史』も、これが動機である確証はないとしています。

 

また『高島町史』に引用されている見舞金、埋葬金の受領書(御請書)には

玄武丸御備大砲ニテ御試験之為メ火矢御打放シ相成 

 と、この大砲発射が何らかの試験のためであると記されています。

 

黒田が酒に酔ってやらかした?

このように『高島町史』では黒田の意図までは言及されておらず、何のために大砲が発射されたのか分かりません。

 

ネット上でこの話を検索すると、当時黒田が酔っ払って大砲発射を命じたという説がいくつかヒットします。

 

ただ私が見たいくつかのサイトでは出典となる文献が記されていないため、黒田ならこれくらいやりかねない酒に酔って大砲発射を命じたと言いきれるのか私には確認ができませんでした。

 

近年刊行された書籍では…

と、いうわけで真相が良く分からなかったのですが、この記事を書くために改めて調べてみたところ、面白いブログを発見しました。

 

blogs.yahoo.co.jp

このブログによると、平成元年に小樽で小学生向けの教材として『おたる歴史ものがたり』なるものが作成されており、その中にあるコラム「玄武丸大砲事件」でも、この「黒田長官大砲事件」に言及されているそうです。

 

私が原典を確認したわけでないため、孫引きとなってしまうのですが…

玄武丸の大砲事件

明治九年七月三十日午前十一時ごろのことでした。祝津の漁師斉藤清之介さんの小屋に大砲のたまがおち、そのはへんがとびちり、家にいた十八歳の娘さんの両足にあたりました。

その大砲は、東京から小樽港に向かっていた、開拓使のご用船「玄武丸」から発しゃされたというので、大さわぎになりました。

しかもその船には「開拓使長官黒田清隆」がのっていたのです。船がつくと長官は、役人と医者をさしむけたのですが、出血が多くその日のうちに娘さんはなくなりました。

ではどうして祝津に大砲をうったのだろうか、ミステリーな話です。

一つは、赤岩の洞くつにいるという白龍を退治するため、岩場に向けてうったのがそれて人家におちた。

二つめは、この船には長官のほか、アメリカから札幌農学校をつくるために招かれた、クラーク博士と学生たちもたくさんのっていたが、黒田長官と博士の間で、教育のしかたについて意見があわず、いらだって大砲をうつことを命じた。

どれがほんとうかの話かは、今でもなぞのままです。長官はばっ金として船長に百円(そのこととしては大金)、船のかんとくには四十円いいわたした。

斉藤清之介さんは、大砲事件のあとしまつのつけ方に、大へんおこり、「人の命が金でかえるのなら、オレだって黒田の命ぐらいかってやるぞ」と言ったそうです。 

 (この文章は黒田長官大砲事件 続き ( 北海道 ) - 手稲通信 - Yahoo!ブログから引用しました)

 

このように、玄武丸に同乗していたクラークと喧嘩したことが大砲発射につながったという説は、文献でも確認がとれそうです(『おたる歴史ものがたり』は国会図書館にも所蔵されているようなので、そのうち国会図書館に行く時にでも私も原典を確認したいと思います)。

 

しかしまぁ理由が何であるにせよ、ひどい話ではありますね。私も良いところを紹介したいのですが……黒田清隆、知れば知るほど残念な逸話が出てくる御仁です。