前回に引き続き、今回も大久保利通の意外な側面を紹介したいと思います。
今回取り上げる史料は、妻木忠太の『偉人周布政之助翁伝』(有名堂書店,1931)です。書名の通り本書が取り上げるのは長州藩士の周布政之助なわけですが、時々出てくる大久保利通がまたいい味を出しています。
と、いうわけで早速ですが、本書の内容を紹介していきたいと思います~(以下、〔 〕内は私が行った注釈です。また適宜旧字体は新字体に改めたり、句読点を挿入しています)
公武周旋を図る薩長の行き違い
今回取り上げるのは、文久2(1862)年6月の出来事です。
詳しく記すと長くなるので省略しますが、この当時薩長両藩は共に公武合体に向けて活動を行っていました(長州藩はこの後、藩論を180度転換させて尊王攘夷運動に突き進むわけですが)。
ただ方針は同じとはいえ薩長両藩の行動には齟齬があり、そのため薩摩藩は長州藩に対して猜疑心を深めるようになってしまいます。
そのため疑惑を解いて薩摩藩との関係を改善するため、当時長州藩の藩政を主導した周布政之助は、島津久光の側近だった堀小太郎〔のち伊地知貞馨に改名〕と大久保一蔵〔のちの利通です〕と面会することになりました。
殺気立つ酒宴の場
6月12日、周布は小幡彦七、宍戸九兵衛、来島又兵衛を伴って堀と大久保に面会し、隅田川で遊んだ後に川長楼で酒も交えて談義したそうです。
(『偉人周布政之助翁伝』には「隅田川に遊び」としか書かれていないのですが、多分舟遊びなのでしょうが何となく可笑しさを覚えてしまいます)
『偉人周布政之助翁伝』pp.149-150によると、ここで周布は長州藩の立場を説明しつつ
翁〔周布のことです〕は先づ長藩の公武周旋に関する趣意を縷説して、毫も他意なく至誠に出でたるを弁明し、且つ小太郎等に向い、若し違言あらんには、僕自ら屠腹すべし
と、自分の決心を表明したそうです。
ここで誠意が通じて疑念が溶けたなら万事解決ですが、薩摩のぼっけもんにはそう簡単に話が通じません。
これに対して堀が
直に膝を進めて足下屠腹せよ、僕之を検せん
なんて言い出したものだから、一気に場の雰囲気は険悪になります。「嘘をついたら腹を切って詫びるから信じてくれ」に対して「じゃあ見ててやるから腹切れよ」なんて言われたら、そりゃあ誰だって腹くらい立ちそうなものですが。
ただこの時は、大久保が
一蔵大呵して之を止めた
と堀を怒鳴って制止したようで、一旦は事態が収拾されました。
もはや一触即発の状況に
けれども、その後も薩長両藩の間には殺気が漂い続けます。
宴もたけなわとなり、そろそろ酒量がレッドゾーンに差しかかった結果、
小太郎頗る不遜傲慢の態度を示しければ、翁は之を斬らんとし、剣を抜き起って舞いしかば
と、どうやら堀は先の騒動からずーっと態度が悪かったらしく、ついに周布は色々飛び越えて堀を斬ることを決意してしまいます(周布も酒癖の悪さで有名な人物だったそう)。しかしいくら相手が無礼だとは言え、この宴会は薩長和解の席だったような…やはりこの時代の何というか、豪快さは現代と隔世の感がありますね。
この周布の動きを受け、
彦七其の危を見て急に起ち、身を以て之を遮り、又兵衛も剣を按して座中を睥睨
木幡はなんとかなだめようとしてますが、来島は自分も刀に手をかけて今にも斬りかかりそうな雰囲気に。もはや和解の話はどこかに飛んでいってしまいました。
そして、このサツバツめいた状況で大久保がとった行動は…?
秘技、炸裂!
『偉人周布政之助翁伝』には、大久保が
一蔵また畳を撥き、之を掌上に弄して其の力を示した
とだけ記されています。
まぁつまりは大久保がやおら畳を持ち上げて、その畳をグルグルと回すことで力を誇示したそうですが…想像すると何ともシュールです(ちなみにこの殺気立った様子、のちに中国の故事になぞらえて鴻門の会とよばれた由)。
『偉人周布政之助翁伝』では大久保も力を誇示する意図があった風に記されていますが、情景を想像するとちょっと違うような気も。
大久保のファンサイトを見ると、その多くが場の雰囲気を変えるための大久保苦肉の策と捉えています。私もその通りなんでないかなぁと思いますね。
この後、なんとか斬り合いは避けられたようですし、多分大久保の行動は場の雰囲気を和らげる良いきっかけになったのではないでしょうか。
ギャップの人、大久保利通
しかしまぁ、威厳が服を着て歩いているような大久保が急に畳を回しだす光景を想像すると、それだけで何だか笑えてきます。
色々な逸話を見ていると、大久保はとっつきにくいけれども、親しくなると味がでてくる人格だったように感じます。
ほかにもまだまだ面白いエピソードはたくさんあるので、おいおい紹介していけたらと思います~