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日本の歴史を変えた(かも知れない)ジャンケン @ 柳条湖事件

1931年9月18日に発生した柳条湖事件。この事件を口実に関東軍は張学良に対して攻撃を開始、半年余りで満州全土を占領しました(満州事変)。

 

柳条湖事件以後、国際連盟の脱退やら皇道派の台頭、そして盧溝橋事件から太平洋戦争まで昭和戦前史は暗い話題が多くなるわけですが、柳条湖事件関東軍の首脳部が独断専行で起こした「謀略」であると言われています。

 

そしてこの「謀略」について証言しているのが、当時関東軍司令部付だった花谷正の「満州事変はこうして計画された」(『別冊知性 五巻 秘められた昭和史』(河出書房,1956)所収)です。

 

歴史学者秦郁彦氏の取材に答える形で記されたこの史料、内容を見ていくと本筋とはあまり関係ないところで「!?」な描写があったりします。今回は柳条湖事件そのものではありませんが、その背後であった一幕を紹介したいと思います~

 

 

柳条湖事件とは

まずは柳条湖事件そのものについて『ブリタニカ国際大百科事典』から引用すると、

 

 1931年9月 18日夜,奉天 (瀋陽) 北部の柳条湖 (柳条溝は当時の報道機関による誤報が流布したもの) で南満州鉄道の線路が小爆破された事件で,満州事変の発端となった。爆破したのは奉天独立守備隊の河本末守中尉らで,満州での兵力行使の口実をつくるため石原莞爾板垣征四郎関東軍幹部が仕組んだものであった。 

 

とまとめられています。この事件の背後には、首謀者の1人石原莞爾の「最終戦争論」やら当時の経済状況やら様々な要因があり、それらについては大変なのでここでは紹介しません。

 

とにかくこの事件は、中央の意向とは別に現地の考えで起こされたものでした。

 

現地の暴発を抑えようとする中央

実際のところ、事件以前に関東軍のきな臭い動きは中央に察知されていました。

 

1931年9月14日、参謀本部第一部長の建川美次中将の満州派遣が決定します。この派遣には、関東軍武力行使を抑止する意図がありました。

 

これを知った関東軍首脳部は対応をめぐって喧々諤々の議論をするわけですが、その様子を花谷の「満州事変はこうして計画された」は次のように記しています(以下、〔 〕内は私が行った注釈です。また旧字体・旧仮名遣いは現用のものに改めています)。

 

もうこの際ジャンケンで

一方建川から電報を受け取った私は、九月十六日午後奉天特務機関の二階に関係者全員を集めて対策を協議した。集った者は板垣〔注.征四郎、当時関東軍高級参謀〕、石原〔注.莞爾、当時関東軍作戦主任参謀〕、私、今田〔注.新太郎、当時参謀本部付〕の他、実行部隊から川島、小野両大尉、小島、名倉両少佐等で奉天憲兵隊の三谷少佐は欠席した。

 

とのことで、このメンバーで事件を自重するか、それとも決行するかで揉めたそうですが、

 

決行するかどうかをめぐって議論は沸騰し私は「建川がどんな命令を持って来るか分らぬ。もし天皇の命令でも持つて来たら我々は逆臣になる。それでも決行する勇気があるか。ともかく建川に会った上でどうするか決めようではないか」と主張したが、今田は「今度の計画はもうあちこちに洩れている。建川に会ったりして気勢を削がれぬ前に是非とも決行しよう」と息まいて激論果しなくとうとうジャンケンをやって、一応私の意見に従うことになった。 

 

とのことで、議論の収拾がつかなくなった挙句、どうやらジャンケンをした模様。この場では花谷の意見が通ったようですが、やはり花谷が勝ったのでしょうか…

 

意味のなくなったジャンケン

もっともこの翌日、今田が「どうしても建川が来る前にやろう」と議論を蒸し返し、結局18日に事件を決行することが決まります。

 

じゃああのジャンケンは何だったんだってなってしまいますが、こうして事件は止められることもなく、満鉄が爆破されることとなりました。

 

まぁ彼ら的にもジャンケンで結論を出すのは本意ではなかったのでしょうが、仮にジャンケン通り自重する方針となっていれば、日本史の流れは大分異なったものになったかもしれませんね~