いよいよ年の瀬も差し迫ってきましたが、この時期の風物詩となるのが年賀状です。
けれども昨今の電子メール、SNSの普及etc.により、年賀状の出される枚数が年々減少しているのは周知の通り。これも時代の流れといったところでしょうか。
ただ、このような連絡手段の移り変わりは世の常で、手段が変われど遠隔地の友人・知人などと連絡を取ろうとする人の気持ちはそう変わりません。
これは国家の一大事である戦時中も同様です。今回は戦時中に戦地と国内を結んだ、軍事郵便という制度を紹介したいと思います。
軍事郵便とは?
軍事郵便とは、1874(明治7)年に定められた「飛信逓送〔ひしんていそう〕規則」に端を発した、一般の郵便制度とは異なる郵便です。
「飛信逓送規則」とは、軍隊を含めた省庁が非常時に用いる郵便制度のこと。その後日清戦争の時に「軍事郵便規則」が制定された後は、公用の郵便だけでなく、兵士たちが家族や友人に宛てた私用の郵便も取り扱うように変化しています。
その後軍事郵便の制度は日露戦争の時に確立、1946年に廃止されるまで、戦地と内地との間で多くの郵便がやり取りされました。
この期間中に出された軍事郵便の正確な総数は、明らかとなっていません。ただ日清戦争の時点で約1240万通、日露戦争時には約4億6千万通という膨大な数の郵便がやり取りされていたそう*1で、その総数は膨大な数に達すると言われています。
wararchive.yahoo.co.jp(「未来に残す 戦争の記憶」という取り組みの一環でも、軍事郵便が紹介されています。このHPによれば、日中戦争~太平洋戦争期における軍事郵便の年間取扱量は、約4億通だったようですね)
史料から見る軍事郵便のある風景
と、いうわけで軍事郵便は明治~昭和期に実施された制度で、時代ごとにその様相はだいぶ異なっています。
ここでは昭和期の軍事郵便について、私が持っている史料を基にその様子を簡単に紹介します。
これは、『逓信の知識』第三巻第五号(1939年発行)の表紙です。
おそらくは中国戦線なのでしょうが、戦闘の合間に兵隊さんが便せんを読んだり書いたりする様子が写されています。おそらく、戦場のあちらこちらでこのような光景が見られたのでしょう。
で、こちらは同じ『逓信の知識』の第二巻第二号(1938年発行)に掲載された、「戦線の父へ兄へ」と題されたプロパガンダ的なグラビアです。
文章の部分には「故国からの便りは兵隊さんには一番うれしいものださうです」と記されており、軍事郵便をどんどん出すことが奨励されていたことがうかがえます。
お国の事情的には、 郵便制度を通じて兵士の士気高揚や、国内の引き締めなどの効果が見込まれていたのかもしれません。
軍事郵便のマニュアルに曰く…
このような国の後押しもあり、戦時中は軍事郵便を出すことが盛んに奨励されました。
こちらは『逓信の知識』第3巻第6号(1939年発行)の裏表紙に掲載されている、軍事郵便の出し方、料金等に関する簡単な案内となっています。
「皆さん、弾丸のやうにドンヾヽお便りをブッ放して下さい!」など、手紙にあるまじき物騒な文言も気になるところです。
さて、軍事郵便は上述の通り膨大な数がやり取りされた結果、一応検閲制度が存在したものの全数調査は困難で、抜き取り検査のみが実施されたと言われます。
そのため意外と色々なことが記されており、その中身を読み込んでいくと思いもよらない内容が記されていることもあったりします。
まぁプライバシー的にも、ここでその内容を勝手に公開するのはよろしくないでしょうが、意外と皆さんの実家を探すと残されているかもしれません(私の実家にも、第一次大戦~第二次大戦中に書かれた、曾祖父~祖父の世代の軍事郵便が多数残されていました)。
読んでみると、時代をへて変わったもの、変わらないものが分かる軍事郵便。年の瀬にちょっと思い出したのでまとめてみました。